金山剣術稽古会の金山先生が主宰するGold Castle 殺陣 & 剣術スクールで行っているの立ち廻りの特別講習会があり参加してきた。
実を言うと殺陣や立廻りにはまったく興味がなかったのだが(というのも、殺陣の経験者または現役の俳優さんで真剣で切らせてみて斬れる人はほぼお会いしたことがないので)、今仲間とともに立ち上げ準備をしている真剣斬法稽古会で稽古カリキュラムに盛り込もうと思っている一対多の戦闘術の参考になりそうだとピンと来て思い切って参加してみることに。
結論としては、大正解だった。
この立廻り稽古会は、ストイックに武術稽古を探求されている金山氏ならではの本格派!多少斬り始めと終わりに見せる(魅せる)テクニックはあるものの、理合や流れなど技の一つ一つは実践的で理にかなっており、敵を除いて見れば一つの美しい形として成立してしまう。
居付かないことの大事
武術稽古の肝の一つである
「居付き」をなくすための連続的で淀みのない動きはそれだけで武術的であり実践的である。
軸はぶれていないのに、
心も身体もそこには居付かない。
技と技の繋ぎ目の身体運用と刀の運用に剣術の、剣術的なエッセンスが凝縮されており、なるほど、剣術稽古の邪魔になるどころか、相互補完して足りない部分を埋め合わせているようだった。
つくづく
足を居着かせた状態からの試斬や居合は無意味であるとの確信を深めた。
連続性の中に見た術の粋
立廻り特別稽古会は二部制で行われ、第一部では基本技を練習し第二部でそれらを組み合わせた立廻りという内容だった。
第一部の基本技は斬り終わりや斬り方にやや殺陣風の味付けがなされるものの、ほとんど剣術であると考えて良い。まっすぐ斬り下ろすこと、水平に切り抜くことなど、怪我なく安全に立廻りを行うためにはきちんと通った刃筋が重要。そしてこれはそのまま正しい運刀となり、剣術にも生きてくる。
第二部の立廻りでは、
連続性の中に剣術の粋を見た。弛まず変化し続ける状況下にあって居付きや淀みはそのまま死を意味する。動き(エネルギー)を停滞させないための身体運用や運刀の中にこそ術は存在する。というのも単体技ばかり修練をいくら積もうが、実際には刻一刻と移り変わる事態の中では次から次へと臨機応変な対応が求められるので、技と技の繋ぎ目を徹底的に様々なバリエーションで身体化していないといざという時にまったく動けない、ということになるからだ。
また、頭でいくら理解できようが、分かるのとできるのは全く違う。ここにもどかしさがあるのだが、同時にこれは稽古の醍醐味でもある。
普遍性を追求すると何にでも活かすことができる
武道をすることの意義・目的としてやたらと
精神性(人間形成)ばかり強調する風潮があるが、私はこれを否定する。というのももしそれが真実だとすれば、世の中にはもう少し多くの人格者がいてもよいのではないかと思うからだ。武道をやっている人を限定的に見てみても、そこに一角の人物がどれほどいるかと問われれば、もちろん道半ばの私自身を含め、ほとんどいないと言わざるを得ない。
なぜこうなっているのかと問われればそれはいたってシンプルであり、武道の
特殊性ばかりに囚われ、普遍性に目を向けていないからである。それは、他流批判、他者批判などに顕著に現れているし、どっちが強いかどっちが良いか悪いかという尺度でしか武道を見れない人が多いことを見ても明白だ。
特殊というのは普遍を浮き彫りにするためにある。
原則に対する例外と同様だ。
より正確な普遍性、原理原則を浮き彫りにするために、より多くの特殊性と例外が必要である。どちらが主流かと言えば、当然普遍性であって原理原則なのである。
したがって、私が特定の流派流儀に所属しないのは、こうした普遍性や原理原則を追求する研究者としてのスタンスを堅持しようとするからである。(特定の流儀流派からの勧誘をまるでネットワークビジネスか宗教の勧誘の如く受けますが、お断りいたします。)
話が横道に逸れたが、つまりは
何事であっても(武道でなくとも)普遍性を追求すれば何にでも活かすことができるということだ。これは、
普遍性を追求せず、特殊性ばかりに囚われていては何の役にも立たない、ということと同義である。
普遍性というのは、分け登る麓の道は数あれど行き着く先はただ一つの頂、というようなもので、どこをどうやっても最終的にはそこに到達しうるものであるから、何を選択しようが自由ということになるが、人には向き不向きがあり、備わっている身体能力もそれぞれであるから、登りやすさというのは考慮する価値がある。逆に言うとそこにしか判断の基準はないかもしれない。
武道を通じて何を得たいのか、そのために今の方法は適切かどうか、それは各人で考えることである。
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