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先日の記事の最後の方に書いたのだが重要な事なので抜粋して改めて一記事として転載する。
武道をすることの意義・目的としてやたらと精神性(人間形成)ばかり強調する風潮があるが、私はこれを否定する。というのももしそれが真実だとすれば、世の中にはもう少し多くの人格者がいてもよいのではないかと思うからだ。武道をやっている人を限定的に見てみても、そこに一角の人物がどれほどいるかと問われれば、もちろん道半ばの私自身を含め、ほとんどいないと言わざるを得ない。
なぜこうなっているのかと問われればそれはいたってシンプルであり、武道の特殊性ばかりに囚われ、普遍性に目を向けていないからである。それは、他流批判、他者批判などに顕著に現れているし、どっちが強いかどっちが良いか悪いかという尺度でしか武道を見れない人が多いことを見ても明白だ。
特殊というのは普遍を浮き彫りにするためにある。
原則に対する例外と同様だ。
より正確な普遍性、原理原則を浮き彫りにするために、より多くの特殊性と例外が必要である。どちらが主流かと言えば、当然普遍性であって原理原則なのである。
したがって、私が特定の流派流儀に所属しないのは、こうした普遍性や原理原則を追求する研究者としてのスタンスを堅持しようとするからである。(特定の流儀流派からの勧誘をまるでネットワークビジネスか宗教の勧誘の如く受けますが、お断りいたします。)
話が横道に逸れたが、つまりは何事であっても(武道でなくとも)普遍性を追求すれば何にでも活かすことができるということだ。これは、普遍性を追求せず、特殊性ばかりに囚われていては何の役にも立たない、ということと同義である。
普遍性というのは、分け登る麓の道は数あれど行き着く先はただ一つの頂、というようなもので、どこをどうやっても最終的にはそこに到達しうるものであるから、何を選択しようが自由ということになるが、人には向き不向きがあり、備わっている身体能力もそれぞれであるから、登りやすさというのは考慮する価値がある。逆に言うとそこにしか判断の基準はないかもしれない。
武道を通じて何を得たいのか、そのために今の方法は適切かどうか、それは各人で考えることである。