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武術仲間がSNSで投稿した「準備運動不要論」が話題になっていますね。会社ブログに書きましたが、先日、野天稽古に行った際に、ちょうどこのことについて話題にしていたので思うところを書いてみます。
準備運動不要論の勘所
スポーツの世界では「ストレッチ不要論」が一時期話題でした。これと準備運動を混同してはならないと思います。スポーツにおけるストレッチも、静的ストレッチを指しており、動的ストレッチは推奨されています。静的ストレッチにしても運動後にやるべしと推奨されています。
一方で、武術における「準備運動不要論」の論旨は、なんといっても、常在戦場、いついかなる時に敵に襲われても即動けることが武術の肝心要であるということや、筋力に頼らない身体操作こそが武術、というような思想・価値観から来るものでしょう。
これはもっともであり、さらに追加して論理展開するつもりは毛頭ありませんが、武術的かどうかという見地で言えば、準備運動は不要、というか、そもそも準備運動という概念が武術にはないと言ってしまって良いと思っています。
しかしながら、武術、というか武術稽古のシステムは本当によくできていまして、準備運動と言えなくもない、術理の根幹をなす型(形)や基本技法がちゃんとありますよね。
その証拠に、「うちでは準備運動の代わりに●●という型や技法を何回か行います」、という人もいます。私もそうです。
いつもやる技で一通り動いてみる。そうするとその日のコンディションが細部に渡って把握できます。
このように、昔から武術界隈には有象無象含め様々な理論が幅を効かせていますが、「筋トレ不要論」はその中でも代表格でしょうか。不要論というのはなんであれ「できる人の詭弁」だったりしますから注意が必要です。つまり、「その人にとっては不要」というだけだったりします。
筋トレは私には「必要」なので取り組んでいます。
よく武術を始める人ややっている人から、「筋トレしたほうが良いですか?」「筋トレしようと思うのですがなにすれば良いですか?」という質問を受けますが、目的を明確にすることが大切です。
この辺は先日のブログ「武道か武術か」に詳しく書きましたので、よろしければご覧ください。
背景の思想やそれを支えるシステムをきちんと伝えよう
私は、武術を研究したり伝承したりする上で、とても大切だと思っているのは、その外郭(外側や見た目、カタチ)だけを伝えるのではなく、それを形成する、思想(考え方、精神性)や実践体系(稽古システム)をきちんと後世に伝えることだと思っています。
武術に筋トレは必要ない、というのは、実のところ、その武術ができた当時に「筋トレ」という概念が存在しなかっただけかもしれません。
というのも、当時の稽古システムを研究していくと、重くて長大な木刀(振り棒)や鉄棒で腰を割って素振りしたりする鍛錬稽古や、天然石を持ち上げたり、腰を落とした状態から地面を足裏で掴むように歩みをすすめる「運歩(うんぽ)」、代表的なものには相撲の四股があったり、流儀流派の術理を実現するために必要なトレーニングが「鍛錬稽古」としてきちんと体系化されていることに気づきます。
したがって、武術界隈に多くいる筋トレ不要論者のそれは、「筋トレ」と聞いてイメージする現代的なダンベルやバーベル、マシン等の筋トレ器具を用いて行うようなトレーニングが不要と言っているのであって、鍛錬稽古はしっかりしているというパラドックスを含むことは大いに了解しておくべきことと思います。
問題は目的意識の欠如
私から言わせれば、現代の文明の利器を用いて、古来伝わってきている鍛錬稽古により欲するところの基礎体力や術理を実現せしめる身体が手に入るのであれば、それはそれで(目標を短期達成するために)どんどん用いるべきであり、馬鹿と道具は使いようという言うように、明確な目的意識がありさえすれば、間違った結果は出ないと信じています。
昔の人が現代の道具類を目の当たりにしたら、「こりゃいいや」とこぞって使うと思います。したがって、ここでの問題は、「明確な目的意識の欠如」だとはっきりわかります。
先に紹介した記事にも書いてありますから重複になるので繰り返しませんが、理想状態が明確にイメージできていさえすれば、現状とのギャップにより、何が不足していて何が未熟なのか自ずと分かるはずなのです。
歴史を重ねてブラッシュアップされてきた伝統的な鍛錬システムというのは、できない人ができるようになるための仕組みであるはずです。残念ながら、これは仕組みづくりの上手い人がいてはじめて実現するのですが、その仕組みづくりの天才にしても「理想状態の明確なイメージ」は必要不可欠です。
最終的には身体に聞けばいい
私のような研究者タイプというのは、この仕組をアレンジしたりなにか他のもので代用したりすることに長けていますから、今だったらこういう便利なものがある、とアレンジして同様の成果を出したりします。逆の発想からすると、道具からトレーニングを思いついたりもしますよね。
アイデアや閃きというのは、所詮組み合わせの産物ですから、目指す理想状態を実現するために、現代であれば、過去に比べて遥かに多くの組み合わせが考えられることは想像に難くありません。
良いと思われていたものがだめだったと定説が覆されたり、そんなことは日常茶飯事です。だからこそ、常識は疑ってかかり、自身の身体を通して、実践を通じて検証してみることは重要です。
最終的には、自分の身体に聞くのが一番です。大多数が良いと言っていることでも自分には合わない、ということはいくらでもあるでしょう。自分に合う方法を見つけていけば良いです。
そのごく個人的なことの正当性を主張することもないですし、人は人、自分は自分と受け入れる寛容な心や考え方もまた、武術的であると思います。
後藤の場合
私の場合、いわゆるストレッチを主体としたような準備運動はあえてしませんが、たとえば筋トレにしても、種目によっては身体の部分部分に違和感を感じることがあるので、その場合にピンポイントで処置することがあります。
また、指導する場合には、生徒が怪我をしない、事故を起こさない、という安全管理の実現のために、集中力を養成するための所作を行います。たとえば、礼法は絶対に行います。
礼法一つとってもきちんと実施すると準備運動と呼べるほどの運動量があります。きちんと背筋を伸ばして立つ、正座する、お辞儀する、立ち上がる。どれをとっても正確に美しく実施するためには、全身のきめ細やかな身体操作が必要です。
続いて鍛錬稽古、基本稽古と進みますが、どれも準備運動と言えなくもないものです。つまり、武術稽古においては、礼法に始まり鍛錬稽古、基本稽古と、あえて準備運動と区別することのない一体化した所作があり、我々はそれを意識的に識別することなく行っていると言えます。
きちんと立ったりきちんと座ったりすること、つまり、姿勢を正すということ、武術的に言えば、構える、もしくは構えない(自然体、無構え)ということ自体が、準備運動に等しい概念であるとも言えるのではないか、そう思います。