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金曜の夜はいつも斬法(きほう)稽古なのであるが、今日は会場の都合でお休み。ということで来週どうしても仕事で稽古に出れない剣術稽古の方を急遽入れることに。昨日に引き続き2連チャン。
新宿スポーツセンターの武道場は空調設備がないためこの時期殺人的暑さとなる。夜だから多少涼しいだろうと楽観視していたのだがとんでもなかった。武道場に足を一歩踏み入れた瞬間に真夏にも関わらず熱気でメガネが白く曇った。
稽古と自主稽古
少し余裕をもって更衣室に到着するとすでに自主稽古で一汗かいた金山先生が入ってこられた。清々しい表情をされていたのできっと納得の行く稽古ができたに違いない。
以前所属していたいくつかの道場を始めとして、研究考学のため色々な道場を見て回っているが、自主稽古にかぎらず稽古って自主的に行うものだ。でも自主稽古しない人がものすごく多い。しなければならないものではないし、強制されて行うものでもない、やりたくてやるというのとも少し違うかもしれない。
多分先生のそれは、私のそれとすごく近い位置づけにあるような気がする。オフィシャル稽古は自主稽古のためにある。稽古で得た気づきや学びをネタとして仕入れて、自主稽古で深める作業をする。その逆もあるし、自主稽古で得た気づきや学びを稽古で試すこともある。つまり、稽古だけでも自主稽古だけでもそれぞれが独立して存在することはなく、車の両輪、表裏一体のワンセットだ。学習でいうところの予習復習が自主稽古、授業が稽古みたいな。
自主稽古なしの稽古は勿体無いし、稽古なしの自主稽古は物足りない。稽古の効果を最大化するために自主稽古があり、自主稽古の効果を濃密にするために稽古がある。素直に学び、学んだことを反復して体得したら工夫を加えて己のものとする。
自主稽古を終え晴々した顔さえ見れば言葉などそんなに多くを交わす必要もない。「ナイス稽古!」でOKだ。筋トレ愛好家同士が居酒屋で最初に枝豆や鶏ささみを口にする時に乾杯ついでに「ナイスタンパク質!」と声がけするのに近いかもしれない。マニアックな話で申し訳ない。
居場所に合わせて、状況に応じて。
金曜夜の新宿スポーツセンターの武道場は大混雑。そのため、道場の端から股を割って股関節の引き上げを使って移動する蛙や雀の下半身稽古ができないので、急遽、一足で間合いをどれだけ詰められるか、踏み込みの稽古を行った。
いついかなるときもスペースや状況に応じてやることやれることを臨機応変に変えていく。この臨機応変というのも武術稽古から得られる日常に活かすことのできる実践活学の一つと思う。
そもそも居合というのはその場その時に合わせて臨機応変に対応することを言う。居合の居は居場所の居であり、合わすとは文字通り置かれたシチュエーションに合わせる、ということだ。
武術稽古から得られるもの
順序が逆転するが、稽古帰りに先生と駅までの道すがら話したことが印象深い。武術稽古から得られるもの、武術稽古からしか得られないものがあるとしたら何か。
丹田を中心とし、頭の先から手足の指先まで、全身を細かく統御し、繊細かつダイナミックな身体運用を実現する。
こうした、身体の隅々までを意識下に置いて制御する術は、武術稽古の得心とすべき効果であり武術稽古から得やすいことの一つであろう。この意識下というのは、意識・無意識、顕在意識・潜在意識の区別はない。
ちなみに個人的には無意識という言葉は好まない。非意識という方が適切だと思っている。意識はないのではなく、意識していない、というのが感覚的に近いと感じているからだ。
この非意識を会得するのに武術稽古は長じていると感じている。人間は精神と肉体がワンセットであるから、どちらかだけに偏重するのはよろしくないし、精神からのアプローチはどうも遠回りに思える。
望ましい精神を獲得するには、肉体からのアプローチは極めて効果的で効率的であると実体験から感じている。
「 身体化」という独特のコンセプトがあるが、意識せずとも身体が覚えている状態にすること、つまり、身体操作を非意識下におくことを意味している。
非意識化すること
さて、余談が過ぎたので稽古に移ろう。
杖術では、前進しながらの回し打ちと四天誕杖(してんたんじょう)を初めて習った。
前進しながらの回し打ちは、冒頭の踏み込み稽古の実践である。左右行ったが当然はじめからは身体化には至らないため自主稽古に持ち込む。
四天誕杖もたった4本だが順番を覚えるのに苦労した。どうしても2本目と3本目の繋ぎがうまく行かない。これは自分の中にこの連続の動きがインプット(身体化)されていないため、一度頭(顕在意識)で考えてから司令を出すというプロセスを辿ってしまっているからだ。このプロセスを排除することが非意識の動きとなる。
繋之型(つなぎのかた)は順序を覚えたのであとはより精度を高め、一定のスピードで澱み無く業じることができるよう稽古する。はじめて最後まで通して出来る型を習得した!
鎬が焦げるほどに
「鎬を削る」という言葉があるが、「鎬が焦げる」体験は初めてだった。
基本の斬割(きりわり)の素振りを行い、それで打ち合いをした。
素振りでは以前の稽古記事に書いたが、この斬割をやるようになってから今まで感じたことのない感覚に驚いている。ただの木刀の真っ向斬りに鋭さと正確さが加味された。これにより、木刀では未だかつて聞いたことのない刃音が聞かれるようになった。
金山先生にも木刀でこんな音出す人は未だかつていないと言われたが自分が一番驚いている。
さて、この斬割で打ち合いをするとどうなるか。
鎬が焦げるのである。
稽古後に木刀を手入れしているとき、どうしてもこの表鎬の焦げ茶色の筋が気になっていた。拭っても拭っても取れない。単なる汚れではない。
その正体が本日の稽古で明白となった。マッチを摺ったときのような一瞬の焦げ臭さが打ち込みの度に感じられたのはこのせいだったのだ。
この現状は仕打がともに一定以上の威力で正確な手の内で正中を取るべく正確に真っ向に斬り込んだ時にしか起こらないはずだ。
というのも、ここまで焦げるためには打ち合った瞬間に弾かれるような運刀では実現せず、少なくとも一定の時間刀が密着することで、木が焦げるほどの摩擦力を発生させねばならない。
鎬を削ると云う言葉がある。これは鎬が削れるほどに激しくぶつかるということで、切磋琢磨するという意味であるが、鎬が焦げるためにはぶつかり合ってはいけない。強く擦り合う必要があり、このためには接触から切り終わりまでの柔らかい手の内の使い方が隠されている。
続いて右足前の八相からの胴斬りでは、左脚の抜きによる右脚の蹴りを使わない素早い動きと水平に斬る刃筋の正確性を意識して稽古した。
探り探りであるが納得の行く斬りになっていないのでまだまだ練習が必要だ。
進歩発展を常態とす
最後は抜刀術。変更のあった懐月(かいづき)の確認と、新技「津波返(つなみがえし)」を行う。
懐月では抜刀の瞬間に鋒が身体の外側に振られないように意識して稽古した。こういうのは動画で撮っておかないと分かりづらい。先日撮っておいた動画では見事に鋒が外側に振れていた。
峰が身体に沿うように抜けていかねば最短最速にはならないし、狭小スペースでの抜刀にならない。
津波返しは立っている状態から前方に落ち込むように斬りかかる敵の腕の下に膝をつけて沈み込んで振り下ろした敵の腕に刃をつける技で、この時、頭上で刃を上にして構えた状態となる。縦抜刀した刀が柄頭と鋒がヒラリ反転して頭上にくる。捨身の勇気を有する技だ。
体側に構えた状態から前に沈み込みながら抜いていくとどうしても敵の踏み込んできた膝に刀身が当たってしまうイメージが思い浮かんできて窮屈な気がしたので、平常に構えた状態で柄頭を右斜め前方に抜いていっては駄目かと先生に問うたところ、先生は何度か自分で試してみて、その方がどんな間合いにも対応しうるし、頭上に振りかざす時に体側に沿って前方に抜く場合と比べて角度が自然とつけやすい、ということで採用くださった。
この柔軟性の高さというのも金山剣術稽古会の素晴らしいところで、常に進化していく稽古の手本のようなものだと思う。これは先生自身が毎日の研究稽古で進化されているからに他ならない。昨日の自分の否定が今日の自分の成長であり、その繰り返しが進歩発展の未来を作る。
かつて所属していたいくつかの道場や流派では、こういう問は許されなかった。何故を問うと「そういうものだ」と言われたり、酷いと「生意気だ」と言われ、しまいには「個人的に研究することを禁ずる」とまで言われた。なるほど、進歩発展がないばかりか退歩衰頽するわけである。
まとめ
内転筋が痛い。
これは基礎稽古の一足踏み込みによるもので間違いない。前足を踏み込み後ろ足を引き込む。この時、内転筋をキュッと引き締める。
内転筋の働きは特に古武術的身体操作の肝である。
学び多き稽古だったためつい筆か進んでしまった。しかしながら、こうしたフレッシュな記憶を書き留めておくことは、あとあと読み返したときに自分の糧となる。読者にも何かしら得るものがあれば幸いだ。