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悔しい。
今日はその一言に尽きる。
言い訳にしかならないがここのところここにはとても掛けないのっぴきならぬ事情で一人稽古の時間がまったくとれなかった。せっかく習い覚えた新しい技や動きもすぐさま一人稽古で復習する時間が持てないと、たったの一週間で忘却の彼方へ追いやられることになる。
すると稽古にきても思い出すところから始まるので先に進まない。先に進まないと充実感が減退してしまう。そうか、稽古が続かずやめてしまう人というのは、こういう悪循環に陥っているからなのかもしれない。
稽古備忘録20170921
今日の稽古会はいつも通り杖術、剣術、抜刀術を行った。
利用者が多くスペースの確保が難しかったため、基礎鍛錬も杖のその場持ち替えによる「差し替え抜き」を行う。身体と杖の扱い、上半身と下半身の具合良い一致を模索していると中腰の辛い姿勢にも関わらずついつい熱中してしまい、これで大腿がパンパンになってしまった。
その後もその場で浮きをつかった落下系の技が中心であったため、大腿筋の疲労が抜ける間もなく、2時間の稽古の後には、軽くつったような状態になっていたが、普通にしていたら小一時間でその痛みはとれた。
いつもであればこのくらいで筋肉が張るということは考えにくいのだが、思い返してみれば、前々日に参加したとある流派の抜刀術稽古で下半身を酷使する技を3時間行っていたことに気づいた。なるほど、2日後に来た、というわけだ。
初めての技がいくつか。甲野先生の動画では拝見していたものの、何をやっているのかよくわからなかったものなので、しっかり習うことができた(できるには程遠い)。
杖では「下三方突き」と「下段抜き」に「影踏み」を、剣術では「影抜き」を習い、抜刀術では「稲妻抜き」や「滝壺」を習った。
既知の技では、杖の「二重連円打」はようやく最後の20番にたどり着いた。しかしながら13番から後は極めて怪しい。まだ心地よい身体操作が見つかっていないためだろう。引き続き身体に覚え込ませるしかない。
「旋打(せんだ)」は先週やったばかりなのに復習する時間がとれなかったため最初からやり直し。まったくうまく行かない。うまくいかない理由の一つとして、3発でワンセットの技であるため、三拍子のリズムに乗らないと連続できず崩れてしまうことにある。手順を覚える段階では3発打って一拍休みを入れた四拍子になってしまう。それでもいいからとりあえず身体化させること。
剣術の「影抜き」では手の内、特にMP関節の使い方に関して、抜刀術の「滝壺」では体軸のとりかたに新しい発見があった。この2つの技については帰宅後すぐに真剣で試してみたいと思い、試してみたところ思った通りだった。
稽古のあり方について
今仲間とともに立ち上げをしている新しい団体でずっと思案していることがある。
それは稽古のあり方について。
金山剣術稽古会の良さは「少人数」にある。じつは前々日に大人数で稽古を行うとある流派の稽古会に参加した。こちらはこちらで広く浅く様々な技を体験することができ面白さはあるのだが、深掘りができない。
金山剣術稽古会は一つ一つの技をじっくり深掘りしていくことができる。もちろん少人数で広く浅くすることも大人数で深く狭くすることもできるのであるが、そのバランスはその時の参加者の技量によって臨機応変に微調整が必要であるから、そういう意味では少人数のほうが微調整が効きやすい。
以前所属していた団体では私もクラスを受け持っていた。少人数で深く行いたかったのと、私の個人的研究結果を検証する場でもあったため、参加者があまり参加できない時間帯にあえて開講した。それでも来たいと希望する人にのみその場限定で深くマニアックにコツを伝授していっていた。通称「ラボ」と呼ばれていた。わたしはもともと研究者なのでこの「ラボ」のスタイルがとてつもなく好きだし心地よい。
そもそも稽古とはこういうものかなと思う。大人数で広く浅く行うものは講習で充分でないだろうか。稽古で深く狭く、講習で広く浅く。稽古は少人数で講習は大人数。どうもこの住み分けが心地よい気がしている。実際、金山剣術稽古会はそうだし、特別講習会は別途設けられている。
大人数の場合、学びの質(深さ)より量(数)の方が重宝される傾向がある。深く学べてよかったではなく、たくさん学べてよかった。お得感を感じる、というわけだ。講習会で興味をもった人が稽古に参加してより理解を深める。ごく自然な学習の流れが作れる。
新団体でもこのスタイルにして行きたいと考えている。