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本質を明らかにしよう
物事は中心点を明らかにし、中心と骨組みからなる全体像を、多面的・多角的に検証し、主流はなにか亜流はなにかを見極めて判断せねばならない。枝葉末節に囚われていたら本質を見失うことになる。
この5年(最初の一年はリサーチのみ)、居合、特に真剣斬法を中心に鍛錬を積みながら独自研究を進める傍らで、実際に足を運んで門を叩き、実に様々な流儀流派を訪れ、教えを請い、話を聞き、手と足と身体を使ってその技法や精神に触れてきた。
数多くの流儀流派に触れれば触れるほど、武道の世界というのはいかに枝葉末節に囚われ、本質を見失っているかと身に沁みて感じている。
たとえば、他流批判がそうだ。
他人がどうあるかより自分がどうあるべきか
自分の流派だけが正しく他は誤っていると捉える思想・慣習、同流派内においてすら派閥により道場レベルで互いに批判し合う。そもそもそういう価値観をもった人間の集まりだから、同じ道場内においても他者批判は日常茶飯事となる。
日常生活そのものがコンテンツと考えるバリバリの商売人気質に加えて、もともとの研究者気質である。
少しも金にならないばかりか徳も失うであろう他者批判はナンセンスであるし、本質からずれている行為は無駄以外の何物でもないと感じてしまう。
まして経営コンサルタントであり戦略プロフェッショナルである。本当にそうなのかな?と「常識はまず疑う」ゼロベース思考が当たり前の思考習慣が身についてしまっている。言ってみれば現代の兵法使いそのものであるわけで、戦略プロフェッショナルとしては、武道業界で使われる兵法は何か違うと違和感を訴えずにはいられない。
例えば、特定の流儀流派にこだわることはすでに兵法ではない。他流との交流や併伝は認めないという御留流も今時感が強いと感じてしまう。
手段の目的化
流儀流派というのは創始者がいて、その創始者の思想や哲学、価値観によって体系化された枝葉末節の枝葉であり方法論に過ぎない。手段と目的で言えば手段でしかないし目的ではない。
枝葉末節を主流だと信じるのは勝手だが、そしてそれを一生懸命継承しようとするのも自由だが 、それはあくまでも枝葉末節であって主流にも本流にもなりえない。手段の目的化はあってはならない。
自身にとっての関心は、それを現代の実生活においてどう活かす事ができるのか、それで人生をどう素晴らしくできそうなのか、実践活学としての側面であって、同時に、よりよい身体技法を身につけるための体系として優れているかどうかしかない。
普遍的で本質的なものしか実践的にはなりえない。
実戦より実践を
今の時代、実戦よりも実践である。
特定の流儀流派に属してしまうとその流派で標準化された枝葉を教え込まれる。本質を捉えた上での枝葉であれば良いのであるが、そうではない場合はピントがズレたものとなる。
悪質なものでは本流の幹から生える枝葉ですらない寄生植物でしかない場合もある。寄生植物はまったくの新興流派であるにも関わらず系譜を捏造しあたかも主流の流れを引き入れているかのように装う。
研究者気質のわたしとしては、枝葉であろうがなかろうが技の理合一つとって「なぜそうなるのか」と聞かずにはいられない。ネットだけではなく永田町の国会図書館に篭ったり神田古本街で古文書を漁ったり、場合によっては足を使って本家本元に答えを求めにいく人間である。
納得が行かないことがあれば納得が行くまで調べようとする。その時「そういう教えだから」という答えが返ってこようものならもうその人からは教わることは何もないとガッカリすることがしばしばだ。
我が意を得たり
そんな主流にはなりえない流儀流派は脇においておいて、主流本流の教え、身体や思考の使い方が様々な分野で活かすことができる、というのは、それが本質からブレることなく普遍性を備えているからである。普遍的なものは流儀流派の壁を容易に超えて共通認識を醸成し、共通言語、共通感覚となる。
前段が実に長くなってしまったが、半分諦めにも似た虚無感に襲われながら諦めずに探索を続けること5年。ついにこの人は!と思える何人かの御仁と出逢うことができた。
これからこれらの御仁と現代の実生活に活きる、人生に役立てることができる実践活学としての武術を研究練磨し、その思想と価値観を普及していきたい。