斬法(きほう)指導が入ることになった。 真剣斬法研究家としてソロ活動を開始したことは先日の記事でも報告したとおりだが、ありがたいことに私の個人指導を受けたいという方がすでに複数いる状態でスタートすることができた。 わたしは特定の師を持たない我以外皆我師を地で行くスタイルだ。宮本武蔵を書いた小説家吉川英治が作った言葉と聞いたことがある。宮本武蔵と言えば五輪書で「万事において我に師匠なし」と記述している。僭越ながら、わたしは諸氏の言葉に深く共感している。 [amazonjs asin="B01L3BEK8W" locale="JP" title="吉川英治 宮本武蔵 全7巻セット (新潮文庫)"] [amazonjs asin="4061587358" locale="JP" title="五輪書 (講談社学術文庫)"] だから、流派を立ち上げたほうが良い、とアドバイスをくれる人もあるが、わたし自身そういうのが嫌いで主義ではないのでどうしたものかと思案している。 そもそも流派という閉じられた系を構築すること自体に不自由さと息苦しさを感じる。 新流派を立ち上げるかどうかともかく、わたしが研究した、もしくは研究している内容を人に指導してお伝えしていることは事実であるから、その伝え方や指導方法に一層の磨きを書けなければと責任感をもって取り組んでいる。
アラインメントとドリル
日本語に直すとすれば一貫性と反復性だろうか。 親父ほど年上の御仁に斬法指導の一方で経営者として指導者としても実に沢山のことを教わっている。帝王学と言っても過言ではないと個人的に感謝している。 わたしが斬法の指導者として独り立ちするに際し、アライメントとドリルの重要性を繰り返し説いて下さった。 つまり、一つの技を習得するための体系づけられた一貫性ある論理や方法論、それを繰り返し反復練習できる練習メニューの必要性だ。 わたしは実は自分なりのアライメントとドリルは豊富に開発して保有している。問題は、アライメントとはその人にとっての、という意味合いを含んでいるから、つまり、パーソナルでなければならない。 本質をぶらさず普遍性を損なわず、ただしその人にとってふさわしい方法で、繰り返し繰り返し反復練習ができなくてはならない。 そこには心地よさや楽しさも欠かせない要素だろう。ノーベル物理学賞受賞者、天才「南部陽一郎」と後藤健太
ノーベル物理学賞受賞の天才とわたしを並び立てるなどおこがましいにも程があるが、ある人に言わせると後藤には南部先生との共通性が見い出すことができるというのである。 南部先生については、東大名誉教授である西村肇先生の論考に詳しい。南部先生と後藤の共通性について御指摘くださった御仁も西村先生とはご縁があるようだ。 その御仁からはその共通性について具体的な話はそんなに多くは語られなかったが、わたしがモットーとしている「我以外皆我師」思想について、南部先生は常に真上、真下、真横ではなく斜め上の人との対話から幅広く情報収集を行っていた、ということをお聞きし、なるほどと思い当たることがあった。 早速自分なりに南部先生のことを調べていると先の西村先生の論考にこのことかなと思うポイントが書かれているのを発見したので紹介する。 西村先生のこちらの論考から引用すると、南部先生の独創性の源泉には、南部の精神の根幹は、人にもグループに追随することを嫌うきわめて強固な「独立心」であることは誰の目にも明らかでしょう。それが単なる願望ではなく、貫き通すのが南部ですが、それを支えているのは、自分ならできるという「自負心」であり、それを人に納得させるだけの「行為の純粋性」であるというのが私の解釈です。独立心、自負心、行為の純粋性 なるほど、これだけ見るとまんま後藤そのものである。人にもグループにも追随することを嫌い、人と違うことに価値を見出し独創性を追求する。独立心の塊のような人間だ。 自負心の源泉は問題解決能力と情勢判断能力であるという。その能力を活かしてコンサルティングを行っている。 人の行為を決める要素には、スジと損得があるという。スジと損得、そのウェイトのかけ方であり、損得よりスジのウェイトが高いほど純粋度が高いという。なるほど、わたしは損得よりなによりスジを重視する。スジでしか生きてきていないと言っても良いかもしれない。 ここまで来ると是非南部先生に会ってみたいと思ったのだが残念ながらすでにこの世にはいない。本格的大仕事まで8年間のトンネルを貫通した南部の精神 現代化学 2009 4月号 南部陽一郎の独創性の秘密をさぐる(3)より引用
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