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人は自分の知識、ボキャブラリーの範囲で思考し答えを出そうともがくが、答えは未知の知識、ボキャブラリーの中にあることが多い。
だから人は一生学び続ける。学びを諦めたものには成長も問題解決もない。
私がいかなる流儀流派や協会団体に属さず、武道団体としてではなくフリーな研究者スタンスで武術、特に剣術と向き合うのは、まさに特定の流儀流派に属すことでその流儀流派の知識、ボキャブラリー(技前含む)で思考する視野狭窄に陥らないための防衛策でもある。
さて、そうしたことに関連して、剣術を自由に発想してみよう。
よくある議論として居合と剣術はどちらが強いか、というのがある。
どちらの立場を支持したところで議論するポイントは一つ。
攻撃までのプロセスがいかに少ないか、ということだ。
つまり先に攻撃を当てたほうが勝ちなのである。
剣術は構えた状態から瞬間的に技を発動できるから有利になるのであって構えてから振りかぶっていたのでは万事休す。同様に居合においては、柄手にとって構えた状態から一気に抜き打つから有利なのであって、抜いてから斬っていたのでは遅い。
剣術において振りかぶりは最大の「隙」となる。 したがって、いかに振りかぶらずに斬ることができるか、技の発動条件を厳しくしていけば行くほどそこに「術」が凝集されていく。
先日の金山剣術稽古会で金山先生と二人で検討した無構えからの斬り上げで試し斬りしてみた。
先日の模様はこちら
既成概念の転覆【稽古備忘録】金山剣術稽古会20180416(杖術、剣術、抜刀術)
まだまだ稽古不足なので今後練り上げていく余地が多分にあるが、とりあえず着想は間違っていないと確認した。
- 八相の構えからの袈裟斬り(斬り下ろし)
- 下段の構え(無構え)からの逆袈裟斬り(斬り上げ)
- 八相の構えからの胴斬り(水平斬り・横一文字斬り)
を振りかぶることなくオコリを見せないように連続で行った。
木刀ではかなりオコリけして無気配の斬り上げができたが、真剣は重量があるため木刀のようにはいかなかった。
重量が影響するということは力にまだ頼っているという証拠になる。
ちなみにこの動画では、筋力に頼らない研究稽古のためあえて長くて重い現代刀を用いている。世の中には古刀至上主義、現代刀至上主義など、自分の好みや価値観を押しつけてくる人がいるが、道具とはケースバイケース、目的によって柔軟に使い分けるべきものだ。
私は細くて薄くて軽くて(居合刀よりも)靭やかで柔らかくよく曲がる古刀が大好きであり、わざわざその斬り味(斬れ味ではない)を味わうタイプの人間だが、目的によって最適な道具をチョイスし、また比較検討する柔軟な思考の持ち主でもある。
さて、話が脱線したが、力に頼るということは身体運用に誤りがあるということだ。
これだから真剣で稽古せずに木刀や居合刀でできたつもりになるのは怖い。
真剣持ったら使い物にならないという実際を目の当たりにしているし、自分自身身をもって体験しているからこれは声を大にして言いたい。
剣術も居合も「真剣を用いた武術」なのであって、真剣とは呼ぶことができないまがい物を扱ってできるつもり、できたつもりになるのは危険だ。
刀法は斬法によって補完される。
習い覚えた刀法は真剣をつかった斬法稽古で仕上げを行うべし。