試し斬りから学ぶこと

  1. 稽古
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決算期ともなるとさすがにこまめに記事を更新している余裕がないのでまとめ記事になってしまう。動画も撮り溜まっていてSNSの方にはちょいちょい投稿してあるがYou Tubeにアップできていない。そんなこんなで3月も終盤である。ということは年度末であり世間一般的にも春から新しいスタートとなる。

私の会社の決算期も3月で新しい期は4月はじまりだ。決算期はいつにしようが自由なのだが、なるべく慣れ浸しんだリズムで自然体で行きたいし世の中の空気感も大切にしているのでこのタイミングの決算にしている。流れに乗ればそれだけ他力も活用できる、気がする。

さて、前置きが長くなった。今日はどうしても書いておきたいことがある。独立して流儀流派に囚われない自由闊達な研究会を設立して4ヶ月。その以前にも同様のコンセプトでひっそりと活動していたことも踏まえても、実に様々な流儀流派の人々との交流を広め深めてきて気づいたことがある。

試し斬りに対する考え方には千差万別あるということだ。

当たり前のように聞こえるかもしれないが、たとえば、他の稽古法と較べてみて欲しい。流儀流派の各種稽古法において、それぞれの説明を求めた場合、その意義と目的はほぼ同一の見解が返答として返ってくるに違いない。だれもがある一定の評価判断をしている(できる)ということだ。

ところが試し斬りはどうだろう。試し斬りは斬れたか斬れなかったか結果が即時一目瞭然なのが特徴だ。白黒はっきりしているとことが良い一方、人によって使用する刀が異なるために、アンフェアな側面もたしかにある。

したがって、使用する刀が違う以上、結果次第であいつの刀の方が斬れるからだ、自分の刀が斬れないからだと斬れない理由を刀のせいにしてしまいたくなる。

ここで大いなる勘違いに気づいて欲しい。試し斬りは他者との優劣を決するための勝負事ではない。使う刀が違うのだからそもそも勝負になどならない。あくまでも勝負というのであればそれは単に自分との勝負である。

という前提に立てるか立てないか、それによって、試し斬り稽古を有意義なものとできるか否か雌雄を決することとなる。また、この前提そのものが試し斬りに対する認識を複雑かつ多岐にさせてしまっている要因でもある。

試し斬りをさせてみると人間性が透けて見える。もう1000人以上指導してきているがこれは経験的にも明らかだ。斬る前後の振る舞いや言動からその人の人となりや歩んできた人生、現在の地位、性格など、ありとあらゆるものが見て取れる。

「真剣」を手にし「真剣」になる瞬間に剥き出しの「人格」が現れる、そんな気がする。

自分との真剣勝負ということはそこに他者は存在しない、ということでもある。つまり、問題の原因のすべては自分の中にある

失敗した時の振る舞いは人によって大きく2手に分かれる。

失敗したのは自分のせいであると考えるか、自分以外のせいであると考えるか。

成功哲学では、すべて自己責任と考えるマインドセットからスタートする。つまり、問題解決の基本スタンスは「すべて自己責任」と考えられるかどうかである。

私の本業のコンサルティングではこう考える。まず原因を内因と外因に分け、外因は無視し内因のみを解決対象とする。ここで言う外因とは、気温や気候、天気、時代、地域、国などの環境的要因のことである。これらは身近な人々、特にビジネスにおいては直接競合するライバル等においてはまったく共通の要因となるため、できない理由になりえない。いかに働きかけようがどうすることもできない。ので無視することとなる。むしろ前提条件であり活用条件として有利な状況を如何に作り上げるか考える必要がある。

残った内因は、すべて自分の努力でなんとかできるものが残っているはずだ。

したがって解決できない問題はない、と考える。

外的要因が主であって、内的要因をどうこうしようがまったく問題解決できない場合はというと、それは「自分の問題ではない」とする。外的要因が主なのであるから、それは個人や民間レベルの問題ではなく、地域社会の問題であり国家、地球の問題となる。たとえ地球規模の問題であっても個人にできることはあるはずだ。つまり、あなたにも地球規模の問題解決のお手伝いは可能である。

おっと、脱線した。

試し斬りにおける考えうる斬れない要因は色々あるので此処に一つ一つ詳述しないが、大切なのはできるだけ外的要因は取り除いて内的要因に絞り込むことだ。最悪なのは、どうせ試斬なんて実戦とは違う、とか、型どおりではない、とか、実際の敵は動いていて止まってはいない、間合いが実際とは違うとか試し斬りする意義そのもののすり替えを行うことだ。

まぁ、良く聞くセリフではあるが、これほど見苦しく聞くに堪えないものはない。

こういうタイプは経験的に高段者や指導者に多く見受けられる。彼らにとってみれば無所属無段無級で斬りまくっている私を認めたくない一心で発してしまう言葉なのかもしれない。他人と比較しない、自分との真剣勝負、これは試し斬りする上での前提条件であり基本スタンスであるのに、他人のことが気になって仕方ないらしい。単に「修行不足」その一言につきる。

試し斬りであっても想像力さえあればいくらでも実戦に近づけることは可能である。そもそも実戦に遠くおよばないのは試し斬りに限った話ではない。他の稽古でも同様である。型においては上手な人の場合1人で業じていても敵が見えるようだ、という。試し斬りも同様だ。まるで攻防が見えるような試技をする人もいるし私もそこを目指している。

実際には刃のついていない袋竹刀や木刀を用いて演武していてもまるで真剣を用いてるかのような錯覚を覚える人もいる。

問題は、止まっていて、攻撃して来ず、間合いだって自由自在に調整できる畳表に対し、斬れなかったということだ。言ってみれば最高最上(この上ない)の条件を整えておきながら斬れなかったのはなぜか?ということである。

これを試斬は実戦とは違うから、と試し斬りすることの意義そのもののすり替えを行うなど言語道断である。

実戦と違うようにしてしまっているのは自分である。恥ずべきはベストな状態でも斬ることができない自分の技量の未熟さ至らなさである。同時に積み上げてきた稽古の確からしさへの正常な疑念を抱くべきで、今後の進歩発展の緒とすべきであろう。

問題を外部化する人は何かと刀のせいであったり、畳表が硬いせいにしたりしたがるが、そういう思考は進歩発展とは真逆にあるので、いつまでたっても斬れるようにはならない。問題を内部化する人は今の斬り方のなにが悪かったのかどこが悪かったのかどうすればよかったのかを細部に渡って検証するので、同じ失敗をすることはしない。次は必ず斬る。

例えば、畳表が硬い→いつもの力では斬れなかった→いつもより少し強く斬る、というように。

長らく愚痴の用に書き連ねて来てしまったが、試し斬りを通じて学ぶこと、それは、自分自身の性格や思考の癖を知り、どう活かして行けばよいかという実践活学に他ならない。

週に一度、月に一度でも、真剣を手にし真剣になる瞬間をつくる。そのことが人生にとってどれだけ有意義な瞬間となるか。一人でも多くの人にお伝えしていければ、と思っている。

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